こんにちは、のどかです。
記事やTwitter投稿を読んでもいまひとつ伝わらないであろう、「のどか」ってどんな人?という素朴な疑問に答えます。
生い立ち
小さい時から内弁慶。
でも親しくなると、一転ホンネ全開。
昔はやった動物占いでいう、 絵に描いたようなこじかタイプだ。
小学校の時、手芸クラブに入ってたけど、作品を仕上げたことなんてない。
図工もそう。
ぶっちゃけ、何か人に強制されて時間までに仕上げるとか苦手、飽きっぽくて超マイペース。
夏休みの宿題とか大変。
お盆の頃になっても宿題が終わらず、田舎のおばあちゃんちに持ち込んで 切り絵などやっていると、当然親戚のおっちゃんが「そんなんやってたら終わんないよ」。
見ていられないとばかり、だんだんあちこちから手が出てくる。
結果、親戚総出で切り絵を完成させた。
ただ大木をシュシュッとテキトーに書いただけの下書き。
それが、もはや小学生の画力を超えた、
陰影やグラデーションも完璧で壮大なスケールの、まさに「作品」と呼ぶにふさわしい仕上がりに。
普段は仕上げもしないので絶対評価なんかされない図工の作品が、
夏休み明けだけ金賞受賞して廊下に飾られたりした。
それが小学校の時のほぼ恒例。
まぁ、今となっては親戚みんなで力を合わせた夏休みのいい思い出。

それでいいの?

いやもう時効でしょ
続いたのは、幼稚園から始めたピアノくらい。
幼稚園から帰ってきて、先生の家に向かってピアノをひいていると、
遊び疲れで先生の指導中コックリコックリ。
それでも、音楽は本当に好きだったから、
中学3年の、受験勉強を本格的に始める夏前まで9年続けた。
歌を歌うのも好き。
地元でちびっこ歌合戦などあると、飛び入りで参加して、時々優勝したりもした。
小学校では4年生からコーラス部に所属。
みんなで声を合わせて歌うのも大好きだった。
学校での私は、あまり目立つのは嫌だったけど、
人をクスッと笑わせるようなことを考えるのが好きだった。
それは話術より文章を書く方に生かされて、中学の担任には
「ウィットに富んだ文章を書くね」と褒められていた。
そんな私だけど、小さい時から心の底ではず〜っと自分に自信がなかった。
幼稚園のときに、顔面に砂をぶつけられて口の中まで砂だらけになって大泣きしたりとか、
何かいたずらをしてお堂に閉じ込められたりだとか、
そういう傷ついた、怖かったということはものすごくよく覚えているタイプ。
自分が傷つくのをとても恐れていた。
高学年になるにつれて、だんだん人目を気にするようになり、
同時に、仲がいい友達もだんだん少なくなっていった。
自分を正直に出すことが怖くなって、あまり本音をさらけ出さなくなった。
というのはこの頃、男子から、やたらからかわれることが多くなってきたから。
目立たないようにすれば男子から目をつけられることもないだろうと考えて、
ますます消極的になっていった。
なぜかよく、目の大きさをいじられていた。
そんなにとびきり大きいわけでもないのに。
授業で雪合戦をしたときには、わざと目に雪玉をぶつけられ、
痛くてへたりこんだところを、さらに追い討ちをかけるように雪をぶつけられて、
泣きそうになりながら、前が見えないまま校庭を逃げ回ったことも。
そこで跳ね返せるタイプならよかったんだけど、私にはその元気がなかった。
中学に入学したら、学校も変わって気分も変わり、友達も多くできて楽しく過ごせたけど、
思春期の複雑な年頃になってくると、今度は一部の女子から目の敵にされるように。
元々そんなに仲良くもないけど、ろくに話したこともない子たちに、
直接ではないけど、誰のことかわかるように聞こえるように嫌味を言われたりとか。
高校は、その人たちの仲間が少ない進学校である女子高に進んだけど、
どこかトゲトゲしい中で多感な時期を過ごしたことで、
自分で思う以上に心がねじれてしまっていたようだ。
親友と一緒の学校に入ったのに、その子すら突き放すような
言動をしてしまって離れてしまった。
それをきっかけに、みんなに対して壁を作るようになって、いつか友達と言える人は
片手で数えられるくらいしかいなくなった。
10代では一番辛い暗黒の3年間だった。

学校生活って、思い出してみてもあんまり楽しい思い出がないんだよね
東京の大学へ進学し、今までの自分を知らない環境に身を置くことになったときには
正直ホッとした。
と同時に、自分を変えなきゃ!と気合を入れた。
とはいえ法学部だったため、周りはほぼ男子。
女子高で過ごした身には、かなりしんどかった。
入学式のときに3人連れの男の子に声をかけられて友達っぽくなったけど、
男子に免疫なさすぎてだんだん疎遠に。
出席番号も、他の女子とは離れていて、紅一点で授業を受けることも多かった。
でもその分、同じ学部の女子を見かけるとお互いに声をかけ合う感じで、
2年生までは女子みんなで飲み会とか行ってたな〜。
その2年の時、女友達に頼み込まれて入った音楽サークルで、初めての彼もできた。
どちらかというと中性的で、自分の意見ははっきり持っているものの、
波風を立てずに人間関係をさらっとこなす、私とは真逆の人たらしタイプ。
3年生以降、授業が減り、一部の仲の良い子以外、学部の女子とは交流がなくなったから、
彼の存在はありがたかった。
とにかく一緒にいると時間が経つのが早くて、充実してた。
卒業と共に別れてしまったけど、彼には今でも感謝している。
社会にもまれて強くなる
さて、就職活動を頑張った結果、私は某大手保険会社の一般職に就いた。しかし、地元での就職は叶わず、結局再び東京へ出ることに。
仕事を覚えるのだけでも必死なのに加え、通勤は片道3時間半。早朝5時の電車に乗って、帰宅は毎晩10時過ぎ。飲み会があれば新幹線を使い、そこから在来線か、親に車で迎えに来てもらっていた。
毎日疲れ果てて、電車でも船を漕ぎまくってたなw
新人だし、失敗もたくさんした。
残念ながら、フォローしてくれる優しい先輩がいる職場ではなく、聞こえるように嫌味を言ったり、失敗のツケを払わされるようなことをされたりなど、精神的にも辛い日々を過ごした。
時々いっぱいいっぱいになりすぎて、自分は何のために生きてるのか?と言う思いに苛まれ、寝ようとしても悔しくて涙が止まらず、文字通り眠れない日もたくさんあった。
半年後、片道1時間で通える場所に引っ越して、通勤事情はずいぶん良くなったけど、仕事自体が嫌いだったのと、職場環境的に私に合わない辛さは変わらなかった。ネームバリューで会社を選んだことを心底後悔もした。

顔は笑って心で泣いて、を地でいってたね。味方がいないから、虚勢張ることでしか自分を守れなかったっていうのもあるけど

辛かった(泣)。でもだからこそ、マイペースが矯正されて仕事早くなったりとか、めんどくさいこと後回しにしなくなったりとか、社会人としては鍛えられたよね
苦手な電話応対が多いことも苦痛だった。退職したかったけど、給与が良かったのと、特に母親から辞めるなと強く言われていたことがあり、なかなか転職の決心はつかないまま。
そんな日々の中、私はどんな仕事なら苦痛を感じず勤められるだろうか?と自問自答を繰り返した。そして、元々文章を書くのが好きだったことを思い出す。
そうだ、文章力を生かせる仕事に就こう。
ほんの一時期、自分の希望する部署に異動できたが、再び人事異動で同じ部に戻されることになり、その時に思い切って退職を決行。
入社から、まる6年が経っていた。
退職する前から、コピーライターを目指して転職活動をしていたが、未経験者を受け入れてくれる先はほとんどなし。
その頃、宣伝会議と言う会社がやっていた半年ほどのコピーライター養成講座を知り、滑り込みで申し込む。
週に1度通いながら職探しを続行。
結果、退職後3ヶ月で小さな広告制作会社へ入社することができた。
無論、これまでのようにボーナスをもらえたりはしないし、月給も下がった。しかし、やりたかった仕事につけたことだけで満足だった。
しかし、いざクリエイティブな仕事についてみると、仕事には終わりがない。仕上げない限りは仕事をしたことにならないし、土日返上でコピーを考えなければいけないこともたびたびあった。
終わった仕事も、後から「あ〜この表現にした方が良かった」と思いつくこともあったりして、後悔がつきまとったり…。

果たしてこの「終わりのない仕事」は、私に向いているのかな?
時間で区切りのあった事務職の方が気が楽じゃない?
と、いつしか思うようになっていた。
ちょうどアパートの更新を迎えていたこともあり、退職と同時に実家へ帰ることを決意。
実家へ戻り、2年後、その頃付き合っていた人と結婚。しかし夫が東京へ転勤になったため、彼について私は3たび上京することに。
新婚生活が始まったが、1年も経たないうちに性格の不一致が露呈した。加えて、実は義母が私たちの結婚にそもそも反対で、私を苦々しく思っていたことが判明。それを機に、6か月もの調停を経て離婚することになった。
母子家庭だった元主人。今考えると、義母が私に息子を「取られた」と思い、嫉妬していただけだったのかもしれないけど…。
調停がまとまるまでの半年は地獄だった。実家の両親だけは私のことをわかってくれているものの、何しろ距離は遠く、普段は1人で耐えるしかない。
誰1人味方がいない…。

…
とても孤独で、ボーッとしていると、無意識のうちに、自分で自分を責めてしまっていた。
調停での相手の言い分があまりにも一方的で酷く、泣き明かした挙句、「いっそのこと、この寮で首を吊ったら、相手に迷惑がかかるだろうな」などと、今思えばゾッとするようなことを考えたことすらある。
でも、とことん泣くと、人って底力が湧いてくるものなんですね。
こんなサイテーの境遇で、サイテーの気分のままで死ぬのって悔しくない?
今まであんまりツイてなかった分、これから人生のピークがやってくるかもしれないのに、それでいいの?
って声が、心のどこかから聞こえてきた。
そしたら、いや将来絶対幸せになる!って思えて、自分の取るべき行動が冷静に見えるようになった。
泣きたい時は泣くってすごい大事で、ストレスを涙と共に洗い流すことで、感情を自力で消化することができるようになるんだな〜って、絶望の中で学んだ。
当時、私は専業主婦。離婚が確定する前に、自立できるよう仕事を探す必要に迫られた。
最初は近所のファミリーレストランの厨房でパート勤めをしていたが、シフトの関係で、どう頑張っても手取りは月4万ほど。
それでは暮らせないので、とりあえず派遣会社へ登録。
1ヶ月ほどで、経理事務の仕事に就けた。新卒で入った会社でちょっとかじった程度だったが、経験が役に立った。
大手化粧品会社の子会社だったその会社は、初めての外資系。意見が積極的に飛び交う、活気のある職場だった。
私の入った経理部は6人。特に女性社員の2人は、新入りで派遣社員である私に対しても全く垣根を作らず、どんどん声をかけてくれ、わからないことはわかるまで詳しく教えてくれた。お昼も毎回誘ってくれて、退社後も週3で飲みに連れて行ってくれた。とにかく、人に恵まれた。
私も心を開き、離婚調停中である事情も包み隠さず伝えていたし、調停のある日には、快く休ませてくれた。

この時は毎日が充実してたね!
2年ほど勤めた後、会社の合併の話が出て、それに伴い正社員を雇うことになり、私は退職。
最後は連絡先をみんなと交換し、いい雰囲気で会社を後にした。
その後、派遣会社に紹介してもらった会社を転々とし、最終的に地元へ戻った。
そこから12年、大手インフラ会社子会社の契約社員として働き、退職。その間、当時付き合っていた人と再婚。それが今のダンナです。
10年以上勤めた会社を辞めた理由としては、直接的にはよくある人間関係が原因です。
しかし、組織自体おかしかったんですよね。
私は某大手企業の子会社の契約社員でした。日々の業務は親会社が作ったマニュアルに沿って行う決まり。大きな組織だけに縦割り意識が強い会社でした。
私のいたフロアは1つの業務を前工程と後工程に分けた部があって、私が所属していたのは後者でした。
前工程でミスがあった場合、その処理をした部署で対応するのがスムーズで一般的な流れなんですが、私のいた会社のマニュアルは、前工程処理後は全て後工程で面倒をみると決まっていました。
そのため、突然コールセンターから対応依頼をされ、調べてみると自分は全然関与していないところで起こったトラブル、といったことがたびたびでした。
お客様へ事情説明する責任がある以上、知らないとは言えない。普段関知しない前工程の作業や間違った経緯なども当事者へヒアリングし、生半可な知識で冷や汗をかきながらお客様に説明。怒られて謝るのも私たち。そんな調子なので、間違いを犯した部署全体に周知されないまま別の人が同じミスを犯し、私たちがまた巻き込まれる、ということもよくありました。
そのため、部署同士の仲がいいはずもありません。そして、私たちにかかる火の粉はその部署からだけではなく、想定もしない、改編でできたばかりで責任者が誰かもわからないような部署からも降りかかってきました。
マニュアルがおかしいんだけど、それは親会社の本社が作成したもの。現場の私たちの声は一切ヒアリングしてもらえません。社内ミーティングで子会社である私たちの会社社長に直接訴えても、いつまで経ってものれんに腕押し。
それもそのはず、上役は全て親会社の天下り。私たちの溜飲が下がることはありませんでした。
親会社には「業務改善」するよう毎年強制されますが、それは旧来のマニュアルを元にした改善活動。その親会社から「明日からマニュアル変更します」と言われれば、おおもとのマニュアルが変わるのですから、それまでの活動は全ておじゃんになります。
私が辞める頃は、そのマニュアルの改編が2〜3ヶ月のペースで繰り返されていました。正直誰もが「もう、やる意味ないじゃん?」でも、親会社からの命令は絶対。
無駄とわかっている改善活動のために頻繁に(残業しながら)会議や研修をするなど、空しい労力が費やされるわけですね…
新卒時の遠距離通勤の辛さから、残業は絶対しない!と言う考えが骨の髄まで染み込んでる私。意味がないとわかっている業務改善のために時間を割くのが耐えきれませんでした。
そんな我慢をして勤めたところで、手取りはとても一人暮らしができるような給料でもない。それでいて、仕事内容と責任は親会社平社員と全く同じ。
加えて、社内人事の新陳代謝が全く働かなかったことも響きました。新しく入ってくる人もおらず、たまにいたとしても、閉鎖的でどよ〜んと黒い想念が渦巻いてるかのような職場の雰囲気に気圧され、みな1年も経たずに退職。お互いよく思ってないもの同士が、10年以上も同じ顔を突き合わせていたワケで。

もうウンザリだよね…
職場の雰囲気は最悪。それでも部署内の仕事は責任感のある人が多くいて、困った時には相談できる雰囲気がありました。ただ1人を除いては。
その人は、私に限らず、その時々で自分の意に添わない人の悪口を、地声の大きさで毎日まき散らすタイプでした。
しまいに、特定の人を叩きのめし始め、傍観者として見ているだけでも気分が悪くなりました。他にも問題視してる人はたくさんいたけど、その人のアクが強すぎて何もできない。
上司も、折を見て態度を注意してくれてはいたようですが、全く反省する様子はなく、むしろ誰がたれ込んだんだと犯人探しを始める始末。
もうダメだ、あの声聞いてるだけで精神がやられる。
でもそれも今にして思えば、職場の雰囲気がよかったら、そこまで彼女の態度も悪化しなかったと思うんですよね。
毎日の仕事に納得してない、トラブルの原因に全くタッチしていないのに、責任とか謝罪だけ押し付けられてる。お客様相談室でも、ましてや社員でもないのに、この部署にいるというだけで給料以上のことをやらされてる。
こうした不満はみんなが持ってました。でも人によって耐性が違い、彼女は内に溜め込めず発散しなきゃ処理できなかったんでしょうね。ただそれが、他人をサンドバックにするっていう最悪のやり方だったのが問題。
ただ、ターゲットにされた本人はすごくたくましかったです。絶対辞めないし、むしろ自分より10歳以上年上なのに、こんな子供っぽいことばかり繰り返して、笑えてくる。と言ってました。私よりずっと若いのに、しっかりしてるなぁ。でもごめん、私は無理だ。
異動も検討しましたが、会社や私の雇用形態では、選択肢がありませんでした。
自分が被害者でもないのに辞めるなんておかしいかもしれませんが、おおもとの組織や会社そのものに、とことん嫌気がさしていたという点が大部分を占めます。
人間は環境に左右されると言われます。
それって本当で、この人変なこと言うな〜って気づいていたとしても、大きな声で毎日聞かされていると、だんだんそれが正論に聞こえてきてしまうものなんですね。
もちろん、そんな暗示にかかりやすい人ばかりではないでしょうが、実際そういった人の周りには取り巻きみたいなものができ、取り巻きは取り巻きで自分が文句を言われないよう他の人に敵意を向かわせ、ますますどす黒い集団が出来上がる。
その空気が全体に広がっていくんですよね。
それに染まりたくなかった、と言うのが真相です。
ブログを通してやりたいこと【情報発信の可能性】
頭の中が仕事辞めたい病でグルグルし始めたころ、たまたまブックマークして読んでいたブログを通して、ネットビジネスを知りました。
結果が出るまではしんどいけれど、ブログは資産になる。稼げる仕組みをいったん作ることができたら、ブログは24時間365日無給で、私の代わりに仕事してくれる。
ブログか…
それまで、私はかつてのmixiやYahoo!、グリーなどで、無料のブログを立ち上げて書いていました。あくまで暇つぶしの趣味的なものだったけれど。
これが視点を変えると、ビジネスになる。
世の中に商品はあふれています。大企業なら大々的に広告を打てるし、ネームバリューだけで新商品もすぐに売上が上がるようになっている。
しかし、立ち上げたばかりだったり、まだそれほど規模の大きくない会社が、本当に頑張って人のためにいい商品を開発しても、認知される機会がないだけで日の目を見ずにダメになっていくということも多々あります。
私は使う人の役に立ちたいと一心に思って作られた製品が、少しでも世間に知られるための橋渡しの役割に、ブロガーの存在意義があると考えています。
こんないい商品があるんだよ、と認識してもらって、実際に購入し使ってみてお客さんも喜ぶ。
そうなれば、商品をすすめた私も嬉しいし、企業は開発資金を得ててさらにいい商品を作ることができる。
その循環が、健全な社会を作る基盤になる。

ちょっと壮大な話になったけど、まず小さな一石を投じるというのが大事だと思っています
私は、自分自身が本当にいいと思えたものだけを紹介することを積み重ねて、ゆくゆくは読者さんと末長く信頼の輪でつながっていきたいんですね。商品だけではなく未来に叶えたい夢なども提供できるブログにしようと日々精進しています。
GoogleのSEOアップデートで、ブログはオワコンと言われています。確かに検索ボリュームの大きなキーワードは、大手サイトに独占されて上位表示は難しくなっていますね。実際に調べたいものがなかなか探せず、金太郎飴のような似たようなサイトばかりが出てくるので、SNSやYouTubeで調べる人が多いというのも納得です。
しかし、ブログにはまだまだ可能性があります。Googleにばかり期待するのはやめて、SNSで検索する人が多いならSNSにも活動の幅を広げていけばいいのです。SNSからブログへ流入させるようにすれば、別にGoogleへ媚を売って検索上位を狙わなくても、自分の発信に興味を持った人を連れてこられるのですから。
ブログは楽しいですよ。これからコロナによってリモートワーク化がぐんと加速化するし、参入してくる人はどんどん増えてくるはず。どうせ始めるなら、1日も早く始めましょうよ。
私がそのお手本となれるよう、これからも精進していきます!